横浜地方裁判所 昭和51年(ワ)689号 判決
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【判旨】
三次に、原、被告間に本件示談契約が成立した事実は当事者間に争いがないが、原告は、本件示談契約が公序良俗に反し、かつ、原告の錯誤によるものであるから、無効であると主張するので、本件示談契約の効力につき判断する。<証拠>を総合すると、被告は本件事故発生後転倒した原告をたすけ起し、負傷の有無、程度をたずねたが、原告の傷害が比較的軽く、原告も事故について被告を非難したものの、傷害の点についてはとりたてて被告に強く訴えることがなかつたので、たまたま他の交通事故を発生させて数日後のことでもあつたところから、治療費等の支払に責任を持つ旨確約を与えて原告を承服させ、道路交通法所定の警察官に対する事故発生の報告をせず、当事者間の話合で事故処理をすることとした。原告は、当初、傷害の程度を軽視して医師の治療を受けなかつたが、数日後、症状が現われてきたので被告に連絡し、被告から紹介された橋爪病院、柔道整復師中山道場に通院し、治療を受け、治療費を支払い、後日、被告に対し右治療費を請求し受領した。その間、病院関係者から原告の傷害が軽く、すでに治療した旨をきいていたし、原告も、交通事故の処理、特に自動車損害賠償保険金請求手続にくらく、被告から前記のとおりの確約を得ていたものの不安の余り、被告との間の事故処理を早急にしたい希望を示したところから、原、被告間に昭和四七年一一月三〇日、「被告が橋爪病院治療費金一万九二七五円、柔道整復師中山道場治療費金七八〇〇円及び慰藉料金五万円を原告に支払う。」との条件で本件事故につき示談契約が成立し、示談の一般条件として「示談が成立しましたので今後本件に関しては双方共裁判上または裁判外において一切異議、請求の申し立てをしないことを誓約します。」と印刷されてあるほか当事者の住所氏名、事故内容等必要事項欄が印刷されてある東京海上火災保険会社備付の用紙を使用して示談書が作成され、被告は、原告に対し慰藉料として金五万円を支払つた。ところが、原告は、その後、本件事故によつて打撲を受けた両膝の痛みに堪えかね、同年一二月一一日から矢橋整形外科病院に通院し始め、被告にこのことを知らせて治療費の支払等に配慮を求めたところ、被告は、さきにした示談契約によつて本件事故の処理はすべて終了したとの態度で、原告が両膝の治療を始めたことを意外とし、過大な損害賠償の請求をするものではないかと疑心を抱き、原告に応えるところがなかつた。そこで、原告は、被告が契約する東京海上火災保険会社横浜査定センターに赴き職員に相談し、自賠責保険の被害者請求手続の説明を受け、そのためには、さきに被告とした示談契約が支障となるので、被告と協議して、さきの示談契約を取消し自賠責保険の被害者請求手続がとれる内容の書面を作成するよう指示され、その要領を記載したメモを渡されたので、このメモを被告に示して、自賠責保険の被害者請求のためさきの示談契約を取消してもらいたいと要求した。被告は、右要求に対し、難色を示し続け、容易に応じようとしなかつたが、当時、大学法学部在学中の二女恭子と、さきの示談契約によつて果して原告が自賠責保険の被害者請求手続ができないものかどうか、又、原告の要求に応じる条件をどのように定めるべきか等を検討し、結局、被害者請求手続によつて支払われる保険金を以て本件事故による損害賠償とし、右以外、被告は原告に対し何等損害賠償の責任を負わないという条件であれば、原告の要求をうけいれるのもやむを得ないとの結論に達し、原、被告間に、昭和四七年一二月三〇日、さきの示談契約を双方の合意で取消したうえ、右のとおりの条件で本件示談契約が成立し、原告と被告の代理人手塚恭子によつて、前同様示談の一般条件、必要事項欄の印刷されてある東京海上火災保険会社備付の用紙を使用して示談書が作成された。そして、原告は、その後、被告に対し、さきの示談契約によつて被告から支払を受けた治療費合計金二万九四七五円及び慰藉料金五万円を被告に戻した。しかしながら、当時、矢橋整形外科病院における原告の治療期間、治療費等の見込は不明であつたし、従つて、本件事故による原告の損害額も未確定の状態であつて、勿論、原、被告間に本件事故による原告の損害額について具体的な検討、折衝はされなかつたし、又、自賠責保険の被害者請求手続によつて原告に支払われる保険金額も未定であつた。
その後、自賠責保険の被害者請求の手続によつて、本件事故による原告の損害が、原告が請求原因4項で主張する項目で合計金六五万三八〇五円と査定され、原告に対し保険会社から保険金五〇万円が支払われたが、その間、原告は被告に対しても損害賠償を請求し、原、被告間に紛争が続いた。以上のとおりである。
ところで、被告は自動車運転者として、仮令、どのような事情があるにせよ、交通事故を発生させたならば、道交法規定により警察官に対しただちに事故発生の報告をしなければならないことは特に説示するまでもない。そして、仮に、被告が道交法の規定を遵守し本件事故につき右報告義務を果していたならば、本件事故の態様、傷害の部位、程度等は捜査によつて、可能な限り明らかとなり、原、被告間の損害賠償紛争の解決にも益し、又、自賠責保険請求手続も円滑に進められたであろうことは容易に推測できるところである。本件事故発生後の原告の態度、行動がまことに無知、軽率であるというべきではあつても、これは、原告が前記のとおりの状況下に被告の確約を信じたからにほかならないものといつて差支えがない。
従つて、被告は原告に対しては前記確約を誠実に実行し、交通事故発生の報告をしなかつたことが結果としては原告に不利益をもたらし後日に深刻な紛争を生ぜしめないよう損害賠償を完全に果すべき責任を負うべきものとしなければならない。しかしながら、前認定の事実からすると、原、被告間にさきに成立した示談契約はその成立の時期、方法及びその内容等において、被告が誠実に前記確約を実行したとは到底することのできないものであつて、被告にその意識がなかつたというならば別であるが、特に被告に対する本件事故による損害賭償請求権を抛棄させ、自賠責保険の被害者請求手続に支障となるが如き条件とした点については非道不当というのほかない。そして、本件示談契約は、さきに成立した右のとおりの内容の示談契約によつて窮状に置かれた原告を、まず自賠責保険の被害者請求手続によつて救済すべきであるとして保険会社職員が適切な措置をしたことが寄与して、ただ、そのためにだけ成立したとしかいえない内容のものであつて、被告が主張する条件の如きは、被告が原告に対し前記確約を与えた真意を疑わしめさえするものであつて、原告が右のような窮状になければ、到底、合意に達するとは考えられないといつて差支えないものであるから本件示談契約は、被告が原告の無知、軽率、窮状に乗じて損害賠償責任を不当に免れるため成立させたものとして公序良俗に反し無効な契約であるとせざるを得ない。従つて、被告は、本件示談契約によつて原告に対する損害賠償責任を免れることはできない。
(高瀬秀雄)